クロードは乙女ゲームの悪役のはずですが、この新しい時間軸では、善と悪の定義がかなり曖昧になってきています。
『悪役令嬢』は、2022年秋のアニメシーズンにデビューした、素敵な新作異世界アニメです。
この物語は、乙女ゲームの悪女アイリーン・ドートリシュの物語で、本作より前のカタリナ・クラエス(『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』主人公)のように、自分がこの物語の悪女であることを自覚しています。
この異世界の主人公は、自分の運命を変えようと決意しており、それは、王子セドリックから異母兄で魔王のクロードへと、婚約者を入れ替えることを意味します。
この異母兄弟は、これ以上ないほど対照的です。セドリックはエルメイア帝国の愛される皇子として、クロードは魔王として、強大で邪悪な存在として恐れられています。
しかし、それは原作である乙女ゲーム「聖と魔と乙女のレガリア」の伝承によるもので、アイリーンは善と悪がゲームの概要から想像するよりもずっと個人的で主観的であることを自ら学ぶことになります。
この乙女系異世界アニメにおける善悪の判断基準
善と悪とは何か、客観的か主観的かは果てしなく続く議論です。一つの作品でたやすく決着をつけることのできないテーマですが、『悪役令嬢』はこのテーマに対する独自のスタンスを定義しています。
本作では、主人公のアイリーン・ドートリシュが『乙女ゲーム~』におけるカタリナ・クラエスのように、悪女として生まれ変わりました。つまり、彼女らは外見上は敵対者ですが、中身は外見でのキャラクター付けからこれ以上ないほど離れています。
新しいカタリナとアイリーンは、それぞれの原作ゲームの時とは全く別の人間であり、ゲームのプロットをいじって人間の本性を理解するメタ知識も持っています。そのため、アイリーンは個人レベルで善悪を再定義し、原作ゲームのストーリーが善悪を決めるのを拒むことができるのです。
アイリーンは、善悪という抽象的で高尚な概念に自分の行動を規定されることはありませんし、どんな人や状況も額面通りに受け取ることはありません。アイリーンは、相手の本性によって人を判断し、それに基づいて尊重したり、支持したり、反対したりします。
セドリックが人気者の王子であろうと、異母兄のクロードが魔王であろうと、アイリーンはその異母兄弟をありのままに見ているのです。その結果、アイリーンは、高貴なはずのセドリックを、狭量で短気な、トラブルを起こしがちな思いやりのない人間だと認識し、一方、クロードを、本当はもっといい人なのに誤解されたクーデレに過ぎないと認識しました。
ある意味、セドリックとクロードはお互いの肩書きを体現しています。セドリックはその態度を見ると悪役のようだし、クロードはただ友達が欲しいだけの臆病な主人公のようです。
アニメのプロットも、それを理解しているようです。その最たる例が、セドリックが公衆の面前でアイリーンとの婚約の破棄を宣言して彼女に恥をかかせただけでなく、第2話ではリリアの代わりにセドリックが激昂して、無実のアイリーンに対して容赦なく彼女を滅ぼすと誓うところです。
アイリーンが濡れ衣を着せられている一方、セドリックはアイリーンの悪事と思われる確かな証拠を持っていると本気で考えています。やはりセドリックの反応は悪役向きで、仮に真に高貴な王子なら冷静にアイリーンと外交的かつ公平に事を収めようとするはずです。しかし、彼はそうするつもりは全くありませんでした。
道徳的な曖昧さが大きなテーマ
「善や悪は存在しない」と断定するのがアニメの仕事ではありません。しかし、これらの用語は社会的に重要な機能を果たしているため、社会はそれについてあまりに厳格で独断的であってはならないのです。善と悪は、多くのニュアンスを表現するフィクション作品において、ある程度の幅を持った解釈が可能なものです。
善と悪をきっちり白黒はっきりさせてしまうと、物事を単純化しすぎたり、あるいは、単に助けが必要なだけだった人を悪人やトラブルメーカーと不当に悪と決めつけたりするなど、大きな弊害が生じる可能性があるのです。
これらは『悪役令嬢』だけでなく、もっと大きなアニメシリーズ『僕のヒーローアカデミア』でも同様に見られます。魔王クロードやトゥワイス(『ヒロアカ』登場人物)といったキャラクターは、社会から悪のレッテルを貼られたからと言って、悪と決まったわけではありません。人そのものを見て、人としての良し悪しを判断する必要があるのです。
アイリーンは、これを実践しました。そして彼女は善と悪は紙一重であるという真理に気づきます。クロードも、セドリック王子も、みんなが思っているような人間じゃないという事に気づいたのです。アイリーンは、今後、社会がこの異母兄弟にこれ以上レッテルを貼るのを許すつもりがなさそうです。